ルネサンス各論

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天文学者は神をみたか

フィレンツェのドゥオーモ(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)の南側に立つ「ジョットーの鐘塔」。80メートル以上の高さがあり、414段の階段を登ると展望台にあがることができるそうです。

フィレンツェにしばらく住んでいた当時、何度もこの前を通りましたが、結局、一度も展望台に登ることがありませんでした。なんだか入場料がずいぶん高かったのです。だけどやっぱりケチらずに上っておけばよかったと思います。

それで、今回は下から見上げた時の「ジョットーの鐘塔」のお話です。

「ジョットーの鐘塔」の壁面には、さまざまなモチーフによって描かれた、六角形のパネルが並んでいます。

これをひとつひとつ眺めていくと、結構、面白いのです。

ジョットーの鐘塔 東側の入口付近

各パネルの主題には、旧約聖書のエピソードを表したものや、人類が発明してきた技術や道具に関するもの、あるいは市民として備えておくべき徳目を擬人化したものなど、さまざまなものが表現されています。

そのなかで自分が好きなのは「天文学」のパネルです。人類の知恵のひとつである天文学を具象化したものです。

アンドレア・ピサーノ(1290 – 1348)の工房で制作された「天文学」のレリーフ

現在、鐘塔につけてあるものは後世のコピーで、本物はドゥオーモ博物館(Museo dell’Opera del Duomo)に展示されています。

これを見ていると、14世紀の天文学のイメージが伝わってきませんか。

画面右、机の上には天球儀が置かれています。左側の天文学者は、いま、まさに天体観測の真っ最中のようです。

彼が左手に構えているのは四分儀(しぶんぎ)でしょう。天体の地平線からの高度を測定する道具です。そして右手には、なにか筆記用具を持っているようにもみえます。

当時、こんな風にして天文学者は宇宙の謎を解き明かそうとしていたのでしょうか。

でも、面白いのはこのレリーフの上の部分なんです。

レリーフ彫刻「天文学」の全体

上の部分をよく見てみると… 天使たちがずらっと並んでいます。

そしてその中央には神のすがた。

天体の彼方から、神と天使たちが天文学者の活動を見守っています。

なんだか、ニヤニヤしながら見ている天使もいませんか。

天文学者は真剣なまなざしで天体を観測しています。でも、彼は気づいていないかもしれませんが、その様子をずーっと高いところから見守っている一群がいたんですね。

人間の探求心、それは偉大だけれども、それよりもさら大きな存在がある。そんなことを表しているのかなと思いました。

このレリーフはジョットーのあとを継いで鐘塔の建設に携わった、アンドレア・ピサーノの工房で制作されました。デザインそのものはジョットーであるとも言われています。

興味のある方はドゥオーモ博物館(Museo dell’Opera del Duomo)で実物をご覧になってはいかがでしょうか。

オペラの誕生とルネサンス

ウフィツィ美術館の回廊に立つガリレオ・ガリレイ像

このあいだウィキペディアで面白いことを知りました。と言っても、音楽史に詳しい人なら常識なのかもしれませんが…

西洋でオペラはいかにして生まれたか、というはなし。

オペラは古代ギリシャ演劇の再現から生まれた

世界で最初のオペラは16世紀末、1597年にベネチアで上演された「ダフネ (Dafne)」ということになっております。作曲者はヤコポ・ペーリ(Jacopo Peri, 1561-1633)。残念ながらこの作品の楽譜などは現存していませんが、とにかくオペラの時代が幕を開けました。

オペラが生まれるずっと前から、ステージで歌をうたうということはあったし、あるいは芝居の上演でセリフを語るということは、当然、ありました。でも、朗々とセリフを歌う、しかも延々と、というのはなかった。そういうのは初めてでした。

「ダフネ (Dafne)」の10年後にマントヴァで初演された、クラウディオ・モンテヴェルディ(Claudio Monteverdi, 1567-1643)のオペラ「オルフェオ (L’Orfeo)」は楽譜が残っています。

どんな作品だったのかというと、こちらのほうはYoutubeでいくつも動画がでてきます。便利な時代ですね。

© Opus An Arte 2002

それで、そもそも、どうしてこんな風に音楽にあわせてセリフを歌うようになったかということなのですが、実はどうも古代ギリシャの演劇を真似てみた、ということらしいです。

ペーリが「ダフネ」を制作するしばらく前から、フィレンツェのバルディ伯爵邸にはいろんな研究者が集まっていました。

彼らは古代ギリシャ・ローマの偉大な文化を学ぼうということで、かなりの学問的情熱に包まれていたようです。

それで、あるとき、古代ギリシャの演劇はどんな風に演じられていたか、ということが話題になりました。

バルディ邸に集まった人々のなかには、翻訳されたギリシャ悲劇のテキストやアリストテレスの『詩学』に凝っている人などもいたりして、なんだか自分たちでもギリシャの演劇を上演してみたくなったかもしれません。

でもどんなふうに演じたらいいのか、本当のところはよく分からない。それで古代ギリシャ音楽研究の第一人者であったジローラモ・メイ(Girolamo Mei, 1519 – 1594)に白羽の矢が立ちました。

メイの仮説は大胆で、「古代ギリシャ演劇では、役者はセリフを語るというよりも、むしろ歌うという感じであった」ということを述べた。

それで、「おお歌うのか! さすがギリシャだ!」と、みんなが言ったかどうかはわかりませんが、とにかく、かつて古代ギリシャではセリフを歌うようにして芝居を演じていたという考えが広まり、そうした流れのなかから今日のオペラのような演技様式が生まれたというのです。

Composer Jacopo Peri in his performance costume as Arion in the 5. intermedio of La Pellegrina (1589).

バルディ邸でメイの話を聴いていた人々のなかに、リュート奏者のヴィンチェンツォ・ガリレイ(Vincenzo Galilei, 1520 – 1591)がいました。天文学で有名なガリレオ・ガリレイのお父さんです。

彼は音楽理論の研究者でもあり、作曲もし、メイとともに古代ギリシャ劇の研究に取り組みました。

そんな中で、ダンテ『神曲』「地獄篇」に着想を得た音楽劇を制作したと伝えられています。子どもたちと共に塔に幽閉され、飢餓に苦しんだウゴリーノ伯のエピソードです。

残念ながら、ヴィンチェンツォ・ガリレイの音楽劇について、詳しい資料は残されていませんが、その音楽形式はペーリらの初期のオペラにも大きな影響を与えたといわれています。

古代ギリシア演劇の研究から生まれたオペラは、その出自においても、まさにルネサンス文化の典型といえるのではないでしょうか。

大事なものは高い所へ

アルノ川とフィレンツェ歴史地区

大事なものは高いところへ。人類太古のむかしから、だいたいそういうものだったのではないでしょうか。なぜか。水害があるから。

去年(2020年)10月の台風19号による被害も甚大でした。土砂崩れのほか、各地で河川の堤防が決壊し、多くの方々が亡くなりました。

都内でも荒川や隅田川が危険水位に達して肝を冷やしました。多摩川は一部で氾濫。地球温暖化の影響で、近年、豪雨の発生件数は増加傾向にあります。今年の秋も心配です。

フィレンツェでは1966年の晩秋にアルノ川が氾濫して大きな被害が生じました。

堤防を越えた水が歴史地区に流れ込み、商店・住宅が浸水。泥水はサンタ・マリア大聖堂(ドゥオーモ)前の広場にも押し寄せました。付近で時計店を営んでいた男性によると、浮遊物が衝突してショーウィンドウが割れ、商品はもとより、顧客から預かっていた修理中の時計まで流されてしまったそうです。

アルノ川に近く、歴史地区のなかでも低地に属していたサンタ・クローチェ教会一帯は、被害が一層甚大でした。チマブーエの「十字架のキリスト」が水に浸かり、塗料の大部分が剥がれ落ちてしまいました。人々はショックを受けました。

世界中に支援の輪が広がり、美術作品や建築物、貴重な文献・書籍を元に戻すための修復事業が根気強く行なわれました。

チマブーエの「十字架のキリスト」もかなりの程度まで修復され、国際的な支援への感謝の意を込めて世界各国への巡回展が実施されました。

修復されたチマブーエ「十字架のキリスト」(2007年撮影)

「十字架のキリスト」はいまもサンタ・クローチェ教会附属の美術館に展示されています。

十字架の背後にまわると、そこには巻き上げ式のワイヤーが設置されていて、非常時には水が迫る前に、高いところへ避難できるようになっていました。

大事なものは高い所へ。

今年の秋の台風にも、やっぱり警戒が必要です。